「このまま時が止まってしまえばいいのにね」
「早く時間が過ぎないかな」
 あらゆる時と場所で思う、何気ない感情。
 誰しも思う事。「時を操れたら…」

 キーン…コーン…
 学校中に響き渡る鐘の音。
 終業を告げる。
 たった今、この中学校では五時限目の授業が終わった。
 二年三組。この教室でも、国語の授業が終わったばかりだった。
「澤田の奴、相変わらず話長いよ。早く終われ、って思ったよ」
「ああ、そうだな」
 国語の教科書をしまいつつ、次の授業の教科書を取りながら苦笑した。
 少年の名は結城凛太[ユウキ リンタ]。
 その話し相手は今一番仲の良い塚原仁[ツカハラ ジン]だ。
「次なんだっけ」
 仁が凛太に訊いた。
 凛太は今自分が持っている教科書を確かめるように見ると「音楽だろ」と答えた。
 次で六時限目。音楽が終ればこの学校から解放される。
「そろそろ予鈴が鳴るから急ごうぜ」
 教科書を取り出すと、バタバタと教室から駆け出していった。

 旧校舎へ移動する渡り廊下。
 新校舎が出来てから設置されたものなのだから、当然新しいはずなのにどこか薄汚なく不気味だった。
 柵越しに、校庭が見える。
 新入生が辛そうにグランドを走っている。
 その傍らに髪の長い桃色の可愛らしいワンピースを着ている…少女らしき人物が立っていた。
「? なあ、おい」
 凛太は横で歩いている仁に声をかけた。
「なんだよ」
「あの女の子。何してんのかな。私服で」
 柵から身を乗り出して仁は校庭を見渡した。
「私服の女の子ぉ?俺には制服とジャージの一年しか見えねえけど」
「何言ってんだよ、あの…あれ?」
 仁の視線を誘導しながら少女がいた場所を確かめた。
 しかし、ワンピースの少女はどこにもいなく、ただゆらゆらと木々が風に吹かれていた。
「おかしいな…」
「おかしいのはお前の頭だ。ホラ、行くぞ」
 軽く凛太の頭を叩くと、仁は早足で渡り廊下を歩いて行った。
「あ、待てよ!」
 それを走りながら凛太は追いかけて行く。

 凛太たちが音楽室に着いた時には、もう教師の川上は教卓の前に立っていた。
 そして無言で凛太たちを睨む。
「遅いんじゃないか?」
「すいません」
 軽い会釈まじりに前を通ると席についた。
 椅子のひんやりとした感触が伝わってくる。
「ふん・・・結城、塚原遅れ、な」
 生徒の中で嫌われている川上の理由は、判らなくはない。
 川上が手で合図すると、全員が音を立てて立ち上がった。
 授業の始めに、必ずすること。
 発声練習。
 川上の弾くピアノ音に合わせて、人様々に発声する。
 その中で、凛太は口パクだった。
 口で「あ」の形を作り、さぞかしやっているかのように微妙に形を変える。
 もう慣れっこだった。
 目線は次第に窓際に映ってくる。
 いつも見慣れている光景のはずなのに、今日は少し違かった。
 例の片隅にいた桃色ワンピースの少女が、窓から見えたのだ。
 ジャージに混ざって、桃色ワンピースの子がいるのだ。
 誰だって気づくはずなのに。
 しかし、誰も気に止めずに準備体操をしている。
 そんな事を悩んでる間に、発声練習は終った。
 皆『座れ』の指示が出たために騒がしく座る。
 多分次にやるのは今度ある合唱祭の練習になるだろう。
「さあ、歌の練習だ。プリントはあるな」
 凛太は教科書に挿んであるプリントを取り出した。
 音楽は凛太にとって退屈な教科に入っていた。
 いつも外を眺め、ベルが鳴るのをひたすら待つ。
 ひたすら、ひたすらひたすら……
 その内『時がさっさと進めばな…』と思うのは何十回だろう。
 さあ、今日も暇だから、いっその事回数を数えて……
 そう、開き直って思った時だ。
 鈍い音を立てて、周りが忙しなく動きはじめた。
 まるで…ビデオの早送りのように。
 時計を見ると秒針と長針物凄いスピードで回っている。
 まるで、凛太だけがスローモーションのようだ。
 凛太の中で数秒しか経たぬうちに、早送りは再生モードに戻り、終了を合図するベルが鳴り響いた。
「な…なんだ…よ、オイ」
 号令を終えた皆は、教室をぞろぞろ出ていく。
 凛太はそこを動けなかった。
「凛太、行くぞ」
 待っていた仁が声をかける。
 その声に現実に引き戻された。
「あ、ああ」
 まだ汗がにじみ出る。
 凛太は早足で音楽室を去った。
 早くその場から、逃げ出したかった。

 教室についても落ち着かなかった。
 例の渡り廊下も一目散に逃げ走った。
 仁には「お前、どうした?」と聞かれたが「気にするな」と言っておいた。
 ホームルームに参加する気力が無くなっていく。
 凛太は乱暴に席を立つとスクールバックに机の中の物を詰め込んだ。
 そして、誰にも何も言わずに教室を走り去った。
 教室を出て、校門まで来ると一度だけ教室を振り返った。
 すると窓際で、仁が陽気に手を振ってくれている。
 凛太は窓に向かって拝むようにして手をさすった。
 そしてまた、逃亡する。

 何もする気が起きなくて、近くの公園で休んでいた。
 家に帰る気にもなれない。
 あの感覚を思い出すだけで、吐き気がする。
 ぼう、と青い青い空を眺めていた。
 すると、突然「こんにちは」と声が聞こえた。
 凛太はベンチに座っている。
 気がつくと隣には女の子が座っていた。
しかも……あの桃色のワンピース。
「ねぇ、名前はなんていうの?」
 まだ顔はわからない。声はとても澄んでいて幼かった。
「……結城…凛太…」
 途切れ途切れに言った。
 どこか、怖かったのかもしれない。
「リンタ?面白い名前ね。アタシ水音[ミズネ]」
「ミズネ?そっちも面白いな…」
 水音は軽く笑う。不意に声が真面目になったのがわかった。
「ねえ、お願いがあるの」
 その時、初めて水音の顔を正面から見た。
 幼いながらも、大人びた顔。
 長い髪をかき上げ、言った。
「あのね、凛太。アタシとお友達になってほしいの」


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